2011/03/27

政治について

地震については何も書かないつもりでいた。
書けないから、ではなく、書くべきでないから書かないのであり、依然書くつもりはないが、書くべきでない理由について書いておくことにした。

まず、今回の悲劇について、またしても恐怖することができなかった(そして今もできていない)ことを告白しておくが、むろん、私はしょせん東京にいた(いる)のであり、「それは当事者でないからだ」といわれればその通りであるとも言える。

しかし、ならば「当事者」とは何か。死者か。縁者を亡くしたものか。家を失ったものか。移動を余儀なくされたものか。或は、野菜や乳を捨てねばならぬものか。家の電気を止められたものか。子に不安な水道水を飲ませるものか。納豆が喰えずに嘆くものか。どこで非当事者と当事者を分つ線が引かれるか、それがわからない。

そこには被害の程度の差があり、その程度に応じた悲しみと苦しさがあるのだろうが、いずれにせよ全て当事者であるとも言えるのであり、彼らが当事者としてそれぞれの悲しみと苦しみを訴えるのは決して不当ではないように思われる。ならば、何らかの被害(の程度)は「当事者」概念を定義する上で必要条件ではあるかもしれないが、十分条件ではないのではないか。非当事者と当事者との分水嶺は、おそらく被害の程度とは別のところにある。が、そこには今日のところは深入りしない。

今のところはっきりしている事は、私は一応地震に震動をそれなりに感じ、その夜帰宅困難者となり、予定されていた小旅行をとりやめ、ガソリンと食品とトイレットペーパーの買い占めによって必要な日用品を失い、停電の影響で自宅サーバをとめ、放射性物質が含まれるらしい水道水を飲んでいるが、当事者になることに(今回もまた)失敗したということであり、そして今もなお失敗しているということである。

今うっかり、「失敗した」と書いた。そもそも、当事者となることに成功した事があっただろうか?「私は当事者だ」と言えた事があったか?よくわからないが、それも今のところどうでもよい。

結局のところ私は当事者ではないから、地震や原発は単に政治の話に帰着するのであり、つまり資源の確保と分配についての問題である。それは、確かに重要な問題でなくはないが、私の生にとって本質的な問題ではないと思う(と信じたい)。本質的でないというのは、些か曖昧な表現であるが、私が言っているのは単に生きながらえるためだけに生きているのではないと信じていたいというどうしようもなくナイーヴな告白であり、同時に資源問題(政治)などは状況によって取れうる手段などは所詮限られているのだから、その範囲で取り扱って処理するだけの問題でしかないということだ。肉体的な疲労はあるかもしれないが、葛藤したりすべき問題ではない。

水は汚染されているのかもしれないが(汚染されていないかもしれない、が、それは私にはよくわからない=知的リソースも有限なものだ)、ペットボトルの水は売っていないし、そもそもそんなものを買って飲む金もないのだから、水道水を飲むか、何も飲まないかというオプションしか既にない。今後、原発の是非だとか、保険への加入や、災害への対策が検討されるだろうが、原理的にリソースは有限なのだから、政治的問題への対応手段の有限性が解消されることはないだろう。

だから、そのような事柄に心を悩ませるべきではないと思う。処理すれば良い単なる作業でしかないと考えておきたい。政治的な正しさは、それなりの調査と分析に基づいて判断を下すつもりではあるが、そういったポリティカル・コレクトネスには私の生の本質的な部分を懸けたくはない。

だから地震については何も書かない。

世界は地震だけで出来ているのではないし、私の生は資源を獲得するためだけにあるのではない。世界はもっと複雑に構成されているのであり、おそらくその複雑さを観測し記述しうる技術について考える事が美術の仕事ではないかと、そんな事を考えていた。

その間に大家の庭の梅が少しだけ咲いた。

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム