Yutaka SONE @ Opera City Art Gallery
メモ
20110327曽根裕展 Perfect Moment 最終日@オペラシティアートギャラリー
前日(26日夜)、Ustにて遠藤水城の話を聞く(というか観る)。要するに曽根のいくつかの作品をある1つの枠組みの中に束ねていく(それは通常はキュレーターの一番の仕事だ)のではなく、できるだけ特定の方向性や意味づけが破綻するような方向性に持っていく事が狙いだったようだ。会場にはキャプションや解説はなく、隣の作品が目の前の作品に干渉してしまう(邪魔する)、あらゆる解釈の可能性が開けていく、そのための亀裂を沢山作る……といったような。
確かに曽根作品はよくわからないと思っていたし、実際見てもやはりよくわからなかった。映像作品はまだ分かりやすいのかもしれないが、彫刻については何なのか。ただのナイーブな彫刻にも見えるが、中国やメキシコでの生産体制などを考えるとそんなナイーブなことで制作が回っているとは考えにくい。何故この人がこんなことをやっているのか、つかみ所がない。つかんでも鰻のように滑って逃げていく。
この様なタイプの作品はキュレーターは扱いにくいに違いない。強引にストーリーやコンセプトを捏造して展覧会を作るのが楽だと思われる。そういう意味で、作品群を特定の意味に束ねてまとめていく、という方法の放棄を目指したのは大変誠実なのかもしれない。
例えば、見ていて考えた事。ナイトバスが走る夜には、世界の別の場所でバースデーパーティーが開かれているはずだし、パーティーの背後で回る観覧車は彫刻となって植物の中におかれ(植物は彫刻でもある)、そうやって過ごす人々はマンハッタンの中にウジャウジャといるのだろう、というような妄想。これをそのままにしておくように配慮すること。
だが同時に、どこまで展覧会自体から意味や文脈を脱色させようにも、見る側が展示からなんとか意味を引き出そうとする、その欲望を抑圧し尽くすことはできないようにも思われた。いずれにせよ、何らかの意味を読み取ってしまう。「美術」の「展覧会」だから、なおさらその文脈に引き込まれるのだが、そういった制度的な文脈を抜きに考えても、単純に作品から何らかの意味を引き出し(たことにし)て安心してしまうだろう。
というわけで、制作或は展示の方向性として、意味を脱色し、脱臼させようというのは誠実だと思うけれど、これが本当に機能するためには見る側が事前に禅寺で修行でもしてマロニエの葉に世界を見れるようになっておらねばならず、逆にそこまで解脱できてれば展示とかいらないんじゃねぇか、だってマロニエに無限の世界が見えてるんだから……というお決まりの悪ループに嵌る様に思う。
だから上記の方向性ではなく、逆に意味を引き出そうとする欲望を肯定的(且つ積極的)に使いつつ、そこをフックにして落とし穴に落とすような方法はとれないだろうか。
アーギャラリー前のミュージアムショップで、展示のカタログと『informal』を買って帰る。これから読む。
マンハッタンの前で、ニューヨークに住んでいたとおぼしき爺さんが「ここの横のビルがティファニーでね」「懐かしくってね……」と言いながら立ち尽くし、そろそろ帰ろうという婆さんに泣きながら「こんなの見たら動けないよ」と言っていたのが印象的であった。